なんでまたフロイトなのか

佐々木敦さんの本(最近頭のなかは彼の本のことでいっぱいです)のなかにティエリ・ド・デューヴにによる〈絵画唯名論〉というものに触れている節があり、これはなんだろう、というか、なぜそういうものがあって自分はこれまで知らないできたのだろう、思って早速『マルセル・デュシャンー絵画唯名論をめぐって』(法政大学出版局)をアマゾンで買ったのですが、一ページ目をあけるなりフロイトの話で、なぜ、フロイトなのか、と思ったらなんだかそればかり気になってしまって、本の中身が頭に入ってこなくなり、読み終える自信が徐々になくなってきました。時代的なもの、というか、きっとその当時はフロイトの〈無意識〉という概念が世間をまさに席巻していたからにちがいないのですが、それをなぜ今さら読まなければならないのか、と考え始めたら、なんだかすごく古いものを読んでいる気がしてきて、なんというか、いつになったら〈絵画唯名論〉の話をしてくれるんだろう、と貧乏ゆすりが出てしまいそうな気分です。もっとも、フロイトを出してくる点に関しては作者もそれなりに遠慮を見せていて、冒頭の小見出しも「またしても芸術と精神分析になるだろうか」と、「またしても」と言っているのですが、そういった留保をつければどんなクリシェも許容されるわけでもないだろう、しかしもっと先を読めばそれなりのわけがわかったりするだろうか、と思いつつも釈然としません。
この釈然としなさ、というのはきっと、期待していた内容との相違からくるんだろうと思いますが、〈唯名論〉と言うからには中世の普遍論争あたりと結びつけつつデュシャンのラディカルな試みを理論的に辿っていったりするのだろうか、とか、勝手に妄想していて、しかしやはり妄想でした。なぜ当時そんなにフロイトがもてはやされたのか、そしてなぜ今それが〈古く〉感じられるのか、といったギモンなら、その手の本をひもとけば氷解するようなものに違いないのですが、気になるのはむしろ、〈絵画〉だとか〈唯名論〉の話が期待されるところにまでひょっこり現れて主題を〈貫通〉してくるフロイトの〈貫通力〉のほうで、なんというか、その生命力に畏怖の念さえ抱きました。



村上華子