Thomas Hirschhorn, "Flamme Eternelle", Palais de Tokyo

トマス・ヒルシュホルンの新作インスタレーションのオープニングでパレ・ド・トーキョーへ。これが杉本博司さんと同日、というのがすごいところ。




トマス・ヒルシュホルンって誰?という基本情報はウィキペディアへ。政治的でアクティヴィストで、日本にあまりいないタイプの作家です。

大量に積み上げられたタイヤの臭いと、会場中に吊るしてある横断幕があたかも68年5月ですが、横にある焚き火がファヴェーラ、日本でいうドヤ街?の雰囲気を醸し出していて、しかし危険な感じはしなくて、形式だけを美術館の中に持ち込んだ、という印象。彼もインタビューでesthétique de l'urgence(緊急性の美学)について語っていて、全て敢えてやっているもののようです。横断幕に書かれたフレーズが全部途中で終っていて、より鑑賞者の解釈に開かれたものとなっている…という工夫はあるものの、既存の状況を美術館の中に持ち込んだだけではないか?というヒハンはある模様です。たしかにその通りだし、展示会場内にバーや図書コーナー、DVDコーナーを設けて共同体的要素を盛り込み、人々の対話を促す…というのもなんだかありがちな口実かもしれません。が、私が個人的に興味があるのが、どうしてこの手のもの、つまり68年5月的な何かがいまここに持ち込まれているのか、です。

最近みた映画にこういうのがあるのですが、

ベルナルド・ベルトルッチ監督『ドリーマーズ』。まさしく68年5月の話で、これが2003年の作品だということに私は一瞬驚いたのですが、言われてみればこのノスタルジックなトーンは、振り返るという身振りのなかで立ち現れるものなのだろうと。
「あの頃」への視線が別の形で結晶しているのはたぶんこの映画


若松孝二監督『実録・連合赤軍』、で2008年にこれをみた私たち(つまり安保を知らない世代)はあまりの暴力性に恐れをなしましたが、これは同じものの別の側面なのでしょう。

『ドリーマーズ』をみてもうひとつ思い出したのは岡田利規『三月の五日間』で、なんというか、「緊急性の美学」とやらが単に表層的なものにとどまらないとすれば、きっとこのあたりが手がかりになるでしょう。