人攫いと人工皮膚、そして第二の皮膚ー"La Piel que Habito" Pedro Almodóvar,2011


近所のモロッコ人街にVendômeという有名なミニシアターがあるらし、ときいていたので出かけてきました。表通りのChausée d'Ixelles から少し入ったところで、想像していたより活気のある場所で治安も大丈夫そうなところでした。
そこでペドロ・アルモドバルの新作を観てきたのですが、人工皮膚の研究をしているマッドサインティストに扮したアントニオ・バンデラスが、娘をレイプした青年をさらってきて手術し、亡き妻にそっくりにして娶り…、という話でした。こういうのをネタバレというのだろうか。あまり書いてはいけないのだろうか。
http://www.lapielquehabito.com/

ともあれこういう、人をさらってきて勝手に手術するお話といえばジョルジュ・フランジュ『顔のない眼』というフランス・カルト映画の古典があります。
予告編。

抜粋。怖いので閲覧注意。

グロいから、という以上に、顔の皮膚をごっそりはぎ取ること自体がむちゃくちゃ怖いわけですが、関係ない人を攫ってきて顔の皮膚を剥がして移植しても、免疫による拒絶反応で崩れてしまい、また別の無関係な人を攫ってきては勝手に手術する、という「使い捨て感」がさらに怖いわけです。

皮膚が崩れるので使い捨てにする人といえばこの人。
サム・ライミの『ダークマン』。

この人も人工皮膚の研究をしていて、ヤクザの抗争に巻込まれて火傷を負い、90分ごとに新しい皮膚をつけていかないといけないわけですが、そのへんはさすがアメリカで、皮膚は人工的に合成するので上記のフランス映画のようにその都度人を殺したりはしません。そのかわり、アクション映画なのでチンピラがたくさん死にます。

とか、皮膚を移植する系の映画を2つ思い出してみて気づくのは、そういえばアルモドバルの映画には上記の2作品ではあれほど問題になっていた免疫拒絶反応が描写されていなかったな、ということです。映画冒頭でアントニオ・バンデラスが、豚の細胞で人工皮膚を作って人間に移植しているのを学会の人に非難される場面はありますが、手術はぜんぶうまくいって、なんというか、技術的なトラブルはぜんぜん出てきません。
とか思い出してみて気づくのは(ここからさらにネタバレになりますが)、勝手に性転換手術を施されて女性になった元・青年が(いろいろあって自由の身になった後)故郷の街を訪れて家族に再会しにいくとき、顔も性別も全然変わってしまった末に本人だと認めてもらうのに使ったのが「服」だったということです。
また、性転換手術をされた直後に元・青年はバンデラスにワンピース等々の女性服を与えられて、その都度「彼」は生地をズタズタに切り裂いて掃除機で吸ってしまうのですが、それってつまり無理矢理男性から女性にされてしまったことに対する心理的な拒絶反応とも読み取れます。
あと、手術の直後に元・青年は全身タイツみたいのを着せられて「第二の皮膚だと思っていつも身につけるように」とバンデラスに言われるのですが、それがいかにも女性の体のラインに仕立てられており、思えばこれを始終着せられていることによって女性性を刷り込まれる働きがあるよね、とも思います。


こういう服。そしてそういえば、元・青年は仕立て屋の息子、という設定でもありました。
アルモドバルがホモセクシュアルだ、というのは有名な話ですが、思うに、今作では人工皮膚だとか形成外科技術とかいうのは監督にとっては補助線にすぎず、じつのところ「服」が重要だったのではないかと思います。トランスセクシャルな人というのは身体(=自分で選べない)と服(=自己イメージに相応しいものを自分で選べる)の間に大きなズレがあるわけですが、そのズレをトランスセクシュアルな人を使うのではなく、無理矢理セクシュアリティをトランスさせられた人を使って表そうとしているように見えます。
とか、考えると面白い映画だなあ。タイトル"La Piel que Habito"は英語だと"The Skin I Live In"で、まさしく、という感じです。そのうち日本でも公開されるだろうと思うのでぜひ。