「大地の芸術祭」の制作費

7〜9月に行われた「大地の芸術祭」の制作費が自分の口座に振り込まれていました。感動、というと大ゲサなと思うかもしれませんが、作家としてキャリアの短い私にとって、これはうれしいものです。

今回振込まれた中から、私は未払いの謝礼を払い、立て替えてもらっていたお金を返します(待ってくださった皆様すみません)。でもって、残りは、、、と言いたいところですが、残りはありません。残りはなく、足りない分は自分のバイト代から持ち出します。つまり、制作費が振り込まれても自分の懐には一銭も落ちないわけで、これはフシギな気分です。

このフシギな気分、というのはおそらく「作家は自分の作品を自分のお金でつくって当然だ」という考えと、「作家はしかるべき報酬を受け取って当然だ」という考えの中間くらいの気分、と言っていいかもしれません。『金と芸術』のハンス・アビングの言葉を借りれば前者はアマチュアリズムの、後者はプロフェッショナリズムの発想でしょう。

大地の芸術祭の場合、出品している人のなかでプロフェッショナルとして作家活動をしている人はごく一部です。多くの人が副業を持っていて、それで(私のように)金銭的には成り立たなくても制作している、というかんじだろうと思います。むろん芸術祭に参加することによって得られるものは地元の方々との交流や、作家としての成長など「プライスレス」なものもいろいろありますが、芸術祭での報酬というのはお金ではない、と言ったとき、その前提にあるのはアマチュアリズム、ではないかと思います。

つまり、制作費に感動してしまったりするのは、自分がアマチュアである証拠のようなもの、にも思えますが、私自身が「アート」の名目でまとまった額のお金を受け取るのが初めてで、昨年まで学生をやっていた身からすれば悪いことではないと思っています。しかし長い目で見た場合、もしプロフェッショナルのアーティストなら、私費を持ち出しているということは「無理をしている」ということなので、それは感動している場合ではあまりなくて、同じ状況で毎回続けることは困難だ、ということでもある、とも思いました。

ということで、感動するのは今回だけにして、今後はシビアにいくと思います。『金と芸術』を片手に。

金と芸術 なぜアーティストは貧乏なのか

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