「神様の家」トーマス F. ユンカース

写真展のお知らせです。案内状が活版印刷で刷り上がりました。


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テルメギャラリー 連続2人展第2回
「神様の家」トーマス F. ユンカース
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会期:12月23日 ( Emperor's Birthday )〜1月1日( New Year's Day )
時間:13:00〜20:00
会場:テルメギャラリー
東京都目黒区八雲1-8-4
http://www.thermegallery.com/map/map.html





「神様の家」に寄せて
Thomas F. Junkers(訳・村上華子)

幼い頃、日曜ごとに私は祖母に連れられ「神様の家」に行くのが習慣だった。神様は何でも知っていて、どこにでも居る、というのが祖母の言だった。どこにでもいるなら、なぜ彼の家まで行く必要があるのか、と訊いて私は祖母を悲しませたりもした。
それでも幼い私は毎週「神様の家」へ通い、神様の像に手を合わせ、神様の言葉をきき、神様の体を食べた。私は決して従順な子供ではなかったが「神様の家」にいるときは不思議と気持ちが落ち着き、神様になら何でも話すことができると思った。「神様の家」の人達も私を可愛がってくれて、日曜でなくても私と神様が親密な話し合いを重ねるのを妨げるどころか、温く見守ってくれた。もっとも、神様と私の蜜月関係は、永遠に続いたわけではない。
13歳の誕生日に、父は私にカメラをプレゼントとして買い与えた。X年式のライカで、鈍く黒光りするボディーからは美しいレンズが飛び出ていた。それはどちらかといえば仰々しい旧式のものだったが、ほどよい重みと心地よいシャッター音、それに当時まだめずらしかったフラッシュを備えたそのカメラは、13歳の少年が持ち歩くには充分すぎるくらいのものだった。
じっさい、私は毎日そのカメラを持ち歩いた。家の近くの小川や森など、屋外の動かない被写体を手始めに、機関車や家畜、家族やクラスメイトまで、何でも私はカメラに収めようとした。むろん、現像作業も自分でしなければ私は気が済まなかったので、学校からあがると屋根裏に作った暗室に直行して夜ごとに写真に熱中した。
だが私はある日、大量に撮った写真の中に、自分にとって大切なものが欠けていることに気付いた。写真の撮影や現像に熱中しつつも、私は決して神様のことを忘れていたわけではなかった。意を決し、ある日曜に私はカメラを懐に忍ばせて礼拝に出席した。そのときの私の心に、神様を試そうという気持ちが少しもなかったと言えば嘘になるだろう。しかし「どこにでもいる」はずの神様が実際には私の写真のどこにも現れない、ということにかんして一つの答えを見つけたい、という動機が私の気持ちの根底にあったことは間違いない。
讃美歌を歌い、説教に耳を傾ける時間が、いつにもまして長く感じられた。つづく聖餐式のため、列席者がぞろぞろと一列にならびはじめたころを見計らい、私はコーデュロイのジャケットからおもむろにカメラを取り出し、礼拝堂のステンドグラスのあたりに向かって狙い定めてシャッターを切った。と、次の瞬間に列席者が皆いっせいに私のほうを振り向いた。私のカメラが光ったのだ。フラッシュは決定的で、ごまかしようのないまばゆさが一瞬、礼拝堂内を満たした。むろん、フラッシュは切ってあるつもりだったのだが、ジャケットに忍ばせているあいだに何かの拍子でスイッチが入ってしまったのかもしれなかった。あるいはフラッシュがオートになっていて、礼拝堂の薄暗さに反応して光ってしまったのかもしれない。だがそんなことはこの際どうでもよい。どのみち私は文字通り外へつまみ出され、その後間もなく亡くなった祖母の葬儀のときを除いて、「神様の家」に行くことは二度となかった。
もともと、祖母は気管支が弱かった。だが、季節はずれの雪が降り続いたある日にカゼをこじらせてあっさり亡くなってしまったときはそれがウソのような感じがした。祖母は敬虔なクリスチャンだったが、最後まで、カメラの一件に関して私を咎めることはなかった。私は、自分のしたことを悔やまないでもなかったが、実のところ、礼拝堂内に一瞬だけきらめいた閃光の美しさに神々しささえ感じていたので、単純な不信心というのとは違うと勝手に思っていた。
祖母の死から数年経って、私はカメラひとつにリュックひとつで故郷の田舎町をあとにした。私は長いながい旅に出て、行く先々で写真を撮っているうちに青年ではなくなっていた。
初めて日本に来たときも、季節はずれの雪が降っていた。どれをとっても同じにしか見えない灰色の建物ばかり立ち並んで、私は正直退屈していた。だがそんななか、ひときわきらびやかなギリシア建築が目に入った。たまたま横にいた日本の友人にこれは何かと尋ねたら、「宗教施設だ」という答えだった。私はものめずらしさで、ほとんど観光客のような無防備さでシャッターを切りまくった。そして、ふとした出来心から、フラッシュをオンにした写真も撮ってみた。日が暮れるか暮れないかくらいの夕闇のなか、フラッシュはけっこう盛大に解き放たれ、宗教施設の、パルテノン神殿みたいな窓にも反射した。私がそのとき持っていたのはデジタルだったので、その場で成果を確認しようとカメラをいじっていると、すぐ横に黒塗りの車が滑るようにしてやってきて、停まった。降りてきたのは初老の男性で、英語で話しかけてきた。「キミのそのレンズはズミクロンか?」彼の問いに呑まれてしまって、私は思わずうなずいた。彼の両脇には護衛みたいな人がいて、すぐにその神殿みたいな建物に吸い込まれていった。護衛の一人が車のドアを閉めてからこちらへやってきて、私にカメラをしまうように言った。そこは車道さえも彼らの敷地だったのだ。
私の横にいた友人は、その人物の顔を知っていると言った。その人がキリストだか仏陀だかの生まれ変わりを標榜していて、その建物のみならず、日本中に建ててあるおなじようなパルテノン神殿の主らしかった。私の目には、裕福なビジネスマンのようにしか見えなかったし、じつのところ、私のレンズはズミクロンではなかった。
だがともかく、私は彼らに興味を持った。彼らだけにではない。友人によれば、こういったかんじの「新しい神様」というのは日本中にたくさん居て、それぞれが誰かの生まれ変わりだったり、何かしら宇宙神とつながりがあったりして信者を獲得していて、めいめいがいろんな施設を構えているらしかった。
思わぬところで「神様」と出会って私は動転してしまったのかもしれないが、その場で私は、「神様の家を撮りたい」と宣言していた。ネクタイをしめた「神様」が、私の幼い頃の欲望を蘇らせてくれたようなかんじだ。私は、日本人の友人に連れていってもらって、チバまで行って近世のお城のような宗教施設を撮ったり、スギナミのモスクのような立派な建物を撮ったりした。なかには全く普通のオフィスビルにしか見えないようなものもあったし、雑居ビルの一室を礼拝所兼事務所にしている控えめな教団もあった。団体によってその規模はさまざまだったが、どこも非常にキレイにしてあって、信者も礼儀正しかった。どの建物に行っても私は、自分が幼い頃にカメラのフラッシュで「やらかして」しまった一件のことを思い出していた。あれほど恥ずかしいことはなかったが、同時にあのときほど礼拝堂を美しく感じたこともなかった。だから私は、ほんとうはそれぞれの施設をフラッシュで撮りたかった。だが撮影を快く思わない教団もあったし、私は彼らを不快にさせるつもりもなかったので、別の方法をとって建物を光らせて撮影することにした。普通に撮影してからその写真に再度光をあてて撮影するこの方法で、結果としては期待していた以上の効果が得られたように思う。
期待以上だったのはそれだけではない。日本の「神様の家」はどこも個性的で、それぞれの魅力を放っていた。神様はどこにでも居る、というのは確かに本当だった。もっとも、神様が何でも知っているかどうかについては確信はもてない。一方で私の友人たちも、ギャラリストの若い夫婦も、何でもよく知っていたし、このプロジェクトの実現に向けて惜しみなく協力してくれた。
この幸運な出会いについて、私は一体どの神様に感謝したらいいのか未だにわからないでいる。