〈箱根畑宿付近〉の写真、とたぶん日本初のノイズの発見

佐々木敦『「批評」とは何か』を読んだ直後にハッとしたのが、明治期の〈箱根畑宿付近〉を撮った三枚の写真、というのを見せられた時だったのですが、佐々木氏が音楽について言っていたことがまさにここでは写真で同じことが起きているのではないかと思って、思わず興奮しました。うろ覚えのまま書いてしまいますが、〈ノイズ〉という概念は録音技術の登場によってはじめて誕生した、つまり、録音技術というのはそこにある音を基本的にぜんぶ拾ってしまうので、本来は録音するつもりではなかった音、車が通る音とか空調の音とかそういた普段は意識されないような音も録音されてしまって、そこではじめて普段は意識されない〈ノイズ〉がとたんに意識されるようになった、というような話でした。一方、〈箱根畑宿付近〉の三枚の写真はどのようなものかというと、これはもうまったく何の変哲もない山道から向こうの山を望む、というものなのですが、一枚目は外国人の写真家(たぶんベアト?)の撮ったもので、二枚目は同じ光景を後年臼井秀三郎が撮ったもの。三枚目も同じ地点、同じ構図で日下部金兵衛が撮ったものでした。これはつまり先人の撮った写真を参照してまったく同じところでまったく同じ写真を撮ろうと試みる、という一種のトレーニングとして撮られたものだろうと考えられますが、三枚の写真を並べたときに目につくのはむしろその相違点で、山並みや付近の樹木の枝ぶりなどからきっと同じ場所であることには違いないのですが、それぞれ異なる時期に撮られたためか、一枚目の写真にはなかった木が二枚目には生えていて、三枚目ではさらに伸びていたり、二枚目には木に電線が張ってあったり、倒木が朽ちかけていたり(手元の写真では確認できないのですが)、と、間違い探しのように種々の相違が浮かび上がってきます。そういった相違は、二枚目、三枚目の撮影者にとってはまさに〈間違い〉であり、手本との相違でしかなかっただろうと想像されますが、きっと絵画での〈スケッチ〉などでは捨象されたにちがいないだろうと思われる些細な相違、つまり〈ノイズ〉も含めて、他のすべての陰影と同様に捉えて印画紙に定着する、というのがまさに写真の特徴であり、本質と言えるのではないかと思いました。

私は絵画の技法の伝承について詳しくないのではっきりしたことはわかりませんが、師匠のヴューポイントを、修行の一環として弟子がトレースする、という手法はおそらく写真独自のものではなく、絵画の伝統を踏襲したものでしょう。セザンヌがサント・ヴィクトワール山を描いたであろう場所には、今も油絵を志す人が訪れて似た絵を描いて帰っていくらしい、などという冗談のような話を今も耳にしますが、おそらくは絵具がチューブに入る前から存在していたであろうそのような絵画的メソッドが、ごく自然に写真にも適用されたときに図らずも、〈ノイズを拾う〉という写真の本質的な性格を浮かび上がる結果が出てきたのだろうと思います。


村上華子